7月2日に開催された第2回の懇話会では、政治学者の加藤淳子先生(東京大学)に、政治行動にかんする脳科学研究の実例と、この種の研究の可能性についてお話ししていただきました。7月初旬とは思えない暑さのなか、33名の方にご参加いただき、講演の後の質疑応答も活発に行われました。講演と質疑応答の概要は以下の通りです。
講演の概要
近年、fMRIをはじめとした非侵襲的な脳機能計測技術を用いた、社会行動の脳神経科学的研究がさかんである。それらの研究では、脳のなかでも報酬系の活動に焦点を当てることが多い。これにたいして、加藤先生のグループでは、現実に用いられている素材を用いて、前頭前野の活動に焦点を当てて実験を行った。
実験では、1992年の米国大統領選挙に用いられた選挙CMと、コークおよびペプシのCMを用いて、自らの陣営の魅力をアピールするポジティブCMと対立 陣営を攻撃するネガティブCMを交互に見せ、被験者の支持について質問すると同時に、支持の変化に伴う脳の活動を調べた。
この実験の結果、次のようなことが明らかになった。選挙CMとコーラのCMでは、活動が強く出る部位が異なっていた。選挙のネガティブCMを見ているときの脳の活動を、支持を変えた被験者と変えなかった被験者で比較したところ、両者とも前頭前野で強い活動が観察されたが、その部位は異なっていた。具体的には、選挙CMの場合、支持を変えなかった被験者 では内側前頭前野がより強く活動し、支持を変えた被験者では背外側前頭前野がより強く活動していた。さらに、感情温度という指標を用いて被験者にたずねた支持の変化と、これらの脳部位の活動を比較すると、それぞれの脳部位の活動の強さの変化と感情温度の変化のあいだには、正負の相関関係が見られた。
これまでの研究を見ると、支持を変化させなかったグループで強い活動が見られた内側前頭前野(BA8)は、不一致の発見や、論理の整合性の判断などの課題を行うときに活動することが知られている。また、支持を変化させなかったグループで強い活動が見られた背外側前頭前野(BA9/6)は、帰納的判断や意図 の不一致にかんする課題を行うときに活動することが知られている。社会的行動においては、経験や学習から帰納的に他者間の社会的序列や関係を判断する能力も、社会的関係にはとらわれず、与えられた情報の一貫性の有無を論理的に演繹する能力も、両方必要である。この実験では、両者それぞれに対応する機能を持つ部位の活動が観察されたことになる。
しかし、行動と強い活動が見られる脳部位は、つねに一対一対応を示すわけではなく、実際に判断を下すさいにはそれ以外の脳部位も関与している。このため、政治行動を特定の脳部位から予測することはできない。イメージング技術を用いた犯罪捜査やマーケティングに注目が集まっているが、このようなデータの性格を考えれば、現実的ではない。
とはいえ、これまでの社会科学研究は行動観察を中心としており、その背景にある心理的過程はブラックボックスのままだった。このブラックボックスの中身を探ることを可能にするという点で、脳神経科学研究は、社会科学研究にとって重要な意味を持つ。
質疑応答の概要
・感情は関係していないのか?
→社会行動にかんする研究では、通常感情も関与するが、この実験では感情をつかさどる部位の活動が見られなかったということがとても興味深い。これは脳神経科学者にとっても驚きだったようだ。
・被験者の性別による違いはあるか?
→とくに性差は見られなかった。
・被験者はおもに日本人なので、日本の選挙CMを見せたらどうだったか?
→ネガティブCMがほとんどないので、実際に実験するのは難しい。
・日本人の被験者が1992年の大統領選挙候補を「支持する」とは何を意味するのか?
→直接的な利害関係がなく、政党支持のように党派的でない支持であること自体が興味深い。現実においては、無党派層の支持に近いかもしれない。
・社会的判断を特定の脳部位に位置づけられないとすると、今後の研究の方向はどのようなものになるのか?
→ 政治家などの行動を観察していると、優れた政治的判断力を持つ人が存在することは間違いない。しかし、これまでは、その背景に、具体的にどのような認知心理過程が働いているかががまったくわからなかった。社会的行動の脳神経科学的分析は、こうした判断力の背景にある認知過程に踏み込む可能性を持っている。
(文責・鈴木貴之)