2019/2/21更新
心の哲学を中心に、心の哲学に関連する諸領域や実験哲学・メタ哲学の研究も行っています。具体的には、つぎのような問題に取り組んでいます。
意識の問題
われわれの意識的な経験、たとえば虫歯の痛みを感じたり、おいしい料理を味わったりすることには、それぞれ独特の感じ(クオリア)がともなっています。しかし、今日の脳神経科学が明らかにするところでは、われわれがこれらの経験をしているときに生じているのは、脳の神経細胞の複雑な活動にほかなりません。では、脳の活動は、どのようにしてわれわれの意識的な経験を生み出しているのでしょうか。意識的な経験は、脳の活動によって、科学的に説明することができるのでしょうか。
わたしは、博士課程からこの問題に取り組んでいます。わたしは、意識的な経験は脳の活動として説明できる、という立場から、博士論文やいくつかの論文を書いています。そこでは、そのような説明は不可能だという議論にたいして反論を試みたり、表象(あるものが別のものを表すこと)という概念を手がかりとして、どのようにして意識的な経験を脳の活動として理解することを試みています。現在では、近年の脳神経科学の成果から、これまでの哲学的な考察の成果を評価するということを試みています。
この問題についてのこれまでの研究成果を、2015年1月に『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』という単著として出版しました。
人工知能の哲学
1980年代から90年代の第2次人工知能ブームの際には、コンピュータは人間のような知能をもつことができるのかという問題が活発に論じられ、そこでは、哲学者も重要な役割を果たしていました。しかし、このような議論は、人工知能研究の停滞とともに下火になっていきました。過去10年ほどのあいだに、コンピュータの性能の向上、ビッグデータの活用、深層学習などの技術革新によって、人工知能研究はふたたび大きな進展を見せています。では、コンピュータは近い将来人間と同じような、あるいは人間よりも優れた知能を持ちうるのでしょうか。過去に指摘された課題は、技術の進展によって克服されたのでしょうか。
この問題について、2018年10月より、JST/RISTEX「人と情報のエコシステム」研究開発領域のプロジェクトとして、「人と情報テクノロジーの共生のための人工知能の哲学2.0の構築」というプロジェクトに取り組んでいます。このプロジェクトでは、第2次人工知能ブーム期における人工知能の哲学の成果を整理するとともに、技術の進展をふまえてその内容をアップデートし、人工知能の可能性と限界について考えるための新たな枠組の構築を目指しています。
プロジェクトウェブサイトはこちら。
精神医学の哲学
精神医学は、生物学的なアプローチから出発し、精神分析の台頭を経て、神経科学の進展や神経薬理学の発展とともに、ふたたび生物学的なアプローチに回帰しつつあります。しかし、現在の精神医学には、薬物療法に代表される生物医学的アプローチ、認知療法に代表される心理学的アプローチ、精神疾患の背景にある社会的な問題を重視するアプローチ、さらには精神力動的なアプローチなど、さまざまなアプローチが並存しています。これらは本当に両立可能なのでしょうか。あるいは、精神医学にはただ一つの正しいアプローチが存在するのでしょうか。
心の哲学をはじめとする分析哲学の知見は、このような精神医学の理論的な基礎をめぐる問題を考える上でも、重要な手がかりを与えてくれるように思われます。近年では、このような関心から、心の哲学の応用の一つとして精神医学の哲学の諸問題についても考察しています。
メタ哲学と実験哲学
哲学は古代ギリシアから続く営みですが、しばしば、まったく進歩していないと批判されます。また、かつて哲学者が取り組んでいた問題の多くは、今日では、自然科学の一部となっています。このようなことを考えたとき、哲学には、固有の問題領域は存在するのでしょうか、また、存在するとして、哲学に固有な研究の方法論は存在するのでしょうか。このように、哲学そのものについて理論的、哲学的に考える営みは、哲学の哲学、すなわちメタ哲学と呼ばれます。
わたしは、近年、質問紙調査を用いて哲学の問題に取り組む実験哲学と呼ばれる方法を実践したり、実験哲学的な研究方法と従来の研究方法を比較検討することなどを通じて、メタ哲学の問題にも取り組んでいます。具体的には、自由意志の問題などを題材として研究を進めています。
そのほか、これまで以下のような問題にも取り組んできました。
素朴心理学と科学的心理学の関係
われわれは、他人の行動から心の状態を読み取り、さらにその心の状態から、その人の行動を理解したり予測したりします。ここで重要な役割を果たす心の状態は、明日は雨が降るだろうというような信念(普通の言葉で言えば考え)や、おいしいものが食べたいというような欲求などです。これらの心の状態と行動との関係にかんする知識の体系は、素朴心理学(folk psychology)と呼ばれています。
一方、今日では、実験などを通じて人間の心と行動の関係を解明しようという、科学的な心理学の研究も進んでいます。科学的心理学の研究では、われわれの行動には思いもよらないパターンがあったり、意外な要因が影響を与えていたりすることが明らかになっています。
では、素朴心理学と科学的心理学は、どのような関係にあるのでしょうか。科学的な心理学は、昔からの常識的な心の理解が正しいことを明らかにするのでしょうか。あるいは、常識的な理解が間違っていることを示すのでしょうか。そうだとしたら、われわれは素朴心理学を捨て去るべきなのでしょうか。
わたしは、修士課程からしばらくのあいだ、このような素朴心理学と科学的心理学の関係という問題に取り組みました。そして、素朴心理学と科学的心理学がうまく一致する見込みは薄いと考えられるが、だからといって、そこからただちに素朴心理学を捨て去るべきだということは帰結しない、という立場から、修士論文やいくつかの論文を書いています。
脳神経倫理学
人間の脳の働きにかんする科学研究は、近年急速に発展しています。それにともない、さまざまな社会的、倫理的問題も発生してきています。脳の活動から人の考えを読み取ることは許されるのでしょうか、頭がよくなる薬があるとしたら、利用してもよいのでしょうか、犯罪者の脳に異常が見つかったならば、刑罰を軽減したり免除したりすべきでしょうか。このような問題を考えるのが、脳神経倫理学です。
わたしはこれまで、脳神経科学が自由意志や責任、刑罰にかんするわれわれの見方や社会実践にどのような影響を与えるかという問題などについて、いくつか論文を書いてきました。その内容については、出版物リストの共著3に収められた論文などをご覧ください。
常識的な人間観と科学的な人間観
われわれは、自分がすることを自分自身で選択し、決定していると考えています。だからこそ、よいことをした人はほめられ、悪いことをした人は非難されたり罰せられたりします。しかし、近年の心理学や脳神経科学の研究は、われわれは、自分の行動の原因を正しく理解していない場合がとても多いということを教えてくれます。このような研究は、われわれが常識的な見方を改めなければならないということを示唆しているのでしょうか。そうだとしたら、常識的な見方は、どのような点で改められなければならないのでしょうか。われわれは、自分がしたことの責任を負うことはできないのでしょうか。あるいはそもそも、われわれは自分がすることを自分で自由に決めることなどできないのでしょうか。
わたしは、脳神経科学に関連する研究の成果をふまえて、人間を対象とした自然科学的な研究がわれわれの人間観や社会実践にどのような変化をもたらすかという、より一般的な問題について考えています。その内容については、出版物リストの共著5や6に収められた論文などをご覧ください。
その他の研究トピックとしては、以下のようなものもあります。