盲視についての覚え書き(吉田先生の講演へのコメント)

哲学者にとっての盲視

そもそも、なぜ意識の問題に取り組んでいる哲学者が盲視を気にするのかというと、盲視は意識を自然科学的な枠組の下で理解する(意識を自然化する)うえで都合が悪い事例であるように思えるからです。

通常、ある意識経験(現象的な意識経験、クオリアを伴う意識経験)が生じているときには、それに見合った識別行動や言語報告も可能です。そして、識別行動や言語報告は、何らかの脳の活動によって可能になっているはずなので、ある意識経験が生じることと、ある脳の活動が生じることのあいだには密接な関係があるだろう、言いかえれば、意識経験には何らかのneural correlateがあって、それが識別行動や言語報告を可能にしているのだろう、と考えられます。もちろん、そう考えるだけでは、なぜ、そしてどのようにして意識経験がneural correlateから生じるのかという、いわゆる意識のハードプロブレムは解決しません。しかし、われわれの意識経験に、識別行動や言語報告を可能にするという役割(因果的機能)があるということは、neural correlateを特定する手がかりになり、さらには意識のハードプロブレムを解決する手がかりとなるだろう、と考えられます。

ところが、盲視患者は、識別行動が可能であるにもかかわらず、意識経験が生じていることを否定します。これが事実だとすれば、(少なくともある種の)識別行動には意識経験は必要ない、ということになります。そうだとすれば、意識経験にはどのような役割があるのか、そもそもなぜ意識経験が存在するのか、ということがわからなくなります。また、盲視患者においては、意識経験と、ある因果的機能を持った脳活動との結びつきが失われているわけですから、ハードプロブレムを解決する手がかりも失われてしまうように思われます。

逆に言えば、意識を自然化しようという哲学者は、健常者と盲視患者の間には(識別能力などにおける)なんらかの実質的な違いが存在するのだ、意識経験の有無というのはたんなるオマケの有無ではないのだ、ということを示す必要があるわけです。

ここで、盲視を何とかうまく処理したいという哲学者には、二つの選択肢があります。

1.盲視患者の報告を文字通りに受け取ったうえで、健常者と盲視患者には何らかの行動能力に差があり、その違いが意識経験の違いをもたらしているのだ、と考える

健常者と盲視患者では、識別能力をはじめとする行動能力のうえで、大きな違いがあります。ですから、この路線にも、十分な可能性があります。たとえば、inferior temporalをはじめとする腹側経路の活動の有無が、意識経験の有無にとって重要なのだ、と考えることができるかもしれません。しかしそうすると、なぜ背側経路の活動ではダメなのかを説明しなければならず、その理由はそれほど自明ではない気がします。

2.盲視患者の報告を文字通りには受け取らず、実は盲視患者も何らかの意識経験を持っているのだ、と考える路線

こちらの路線をとれば、盲視患者も、その識別能力に応じた何らかの(おそらくはぼんやりとした)意識経験を持っているのだということになり、意識経験の有無は識別能力の有無に対応するという路線は維持できるので、その点ではすっきりしています。しかし、被験者自身の報告を否定することになるという代償もあります。吉田さんはお話しの最後で、2の路線に沿った解釈を示唆されていましたが、実は私もこちらの可能性に魅力を感じています。

盲視という現象をどちらかの路線でうまく説明できるか、できるとしたら、どちらがよりよい説明なのか、ということが、哲学者にとっての基本的な課題ということになります。しかし、どのようなデータによってこの問題に決着をつけることができるのか、そもそも決着をつけることが可能なのかということ自体も、大きな問題です。デネットであれば、そもそも間違った前提から出発しているからこういう問題が生じるのだ、と言うかもしれません…

タイプ1の盲視患者とタイプ2の盲視患者

いずれにせよ、通常の盲視をめぐる議論では、

健常者:識別能力○、意識経験○
盲視患者(タイプ1):識別能力○、意識経験×

という図式で考えられています。ところが、今回のお話しでは、何らかの感じを抱くという盲視患者のお話がありました。

盲視患者(タイプ2):識別能力○、意識経験△

といった感じでしょうか。では、このタイプ2の盲視患者はどう位置づけたらよいのでしょうか。

論理的には三つの解釈が可能でしょう。

3.タイプ1の盲視患者は意識経験を持たないのにたいして、タイプ2の盲視患者はぼんやりとした意識経験を持つ

そうだとすると、両者の違いは、意識経験の有無を決める違いだということになります。これは、上の1の路線に沿った考え方と言えるでしょう。

4.どちらの盲視患者もぼんやりとした意識経験を持っているのだが、タイプ1の盲視患者はそのことを自覚できていないのにたいして、タイプ2の盲視患者は自覚できている

このとき、両者の違いは、意識経験の有無ではなく、自覚の有無をもたらすのだということになります。これは上の2の路線に沿った考え方です。

5.タイプ1の盲視患者もタイプ2の盲視患者も意識経験を持たないが、タイプ2の盲視患者は間違って自分が意識経験を持つと考えている

アントン症候群のような症例を考えれば、このような可能性がないとも言えません。しかし、盲視患者とアントン症候群の患者では脳の損傷部位が異なるでしょうから、このことは、この解釈をとる積極的な理由にはならないでしょう。いずれにせよ、この解釈によれば、意識経験の有無を決めるのは、二つのタイプの盲視患者が共通に損傷している部位だということになります。

では、いったいどの解釈が正しいのでしょうか?そもそも、どのような方法でどの解釈が正しいかを決定できるのでしょうか?現時点では、私にはなんとも言えません。(両者の間に、どれだけの解剖学的、機能的な違いがあるのでしょう?そのへんも気になるところです。)

ただし、どちらの解釈をとるにせよ、一つ問題があります。それは、吉田さんもお話しの中で言及されていましたが、タイプ2の盲視患者は、かすかな刺激を見ている健常者とは違うらしい、ということです。健常者の場合には、意識経験が生じているという自覚と識別能力の間には強い相関が見られるのにたいして、タイプ2の盲視患者の場合には、それほど強い相関が見られません。そうだとすれば、タイプ2の盲視患者は、たんにかすかな意識経験を持っているということではないようです。タイプ2の盲視患者は、健常者のかすかな意識経験とは違った種類の、ぼんやりとした意識経験を持っているのでしょうか?あるいは、意識経験がないにもかかわらず、あるように感じているだけなのでしょうか?(ここでも、デネットであれば、そもそもこういった区別には意味がないのだ、というのかもしれません…)

感覚入力か脳活動か

さて、いよいよ吉田さんが最後にお話しされた話題です。

ここでは、タイプ2の盲視患者が、自ら報告している通りに何らかの意識経験を持っているとして、それがどのようなものであるのかが問題になっています。そして、Hurley and Noeの議論を手がかりに、二つの解釈を検討されています。

二つの点についてコメントします。

第一に、講演の際にも少しコメントしましたが、脳活動と運動出力の関係を重視するモデルがあってもよいのではないか、そして、実はそれが一番説得力があるのではないか、と私は考えています。

このモデルでは、幻肢に感覚を感じる患者が触覚的な経験をしているのは、体性感覚野が健常者と同じような仕方で出力と関係しているからであり、全盲の人が点字を読むときに触覚的な経験をしているのは、その人の視覚野が、晴眼者とは違った仕方で出力と関係している(おそらくは、晴眼者の体性感覚野と似たような仕方で出力と関係している)からだ、ということになります。

このモデルでは、たとえば逆さ眼鏡への順応のような現象も、うまく説明できるように思えます。上下逆転眼鏡をかけてしばらくたって順応した人の場合、感覚入力は通常と逆転していますし、(少なくともV1などでは)脳の活動も上下逆転した内容に対応しているはずです。それにもかかわらず、正立した世界が経験されるとすれば、視覚経験の内容は、感覚入力によって決まるわけでも、脳活動によって決まるわけでもなく、むしろ、脳活動と運動出力との関係によって決まるように思われるのです。

ちなみにこのような考え方は、最近翻訳の出たAction in PerceptionでNoe主張している考え方のようにも思われます。(彼は脳活動が外界の表象として機能するというような語り方には反対するかもしれませんが、経験内容は身体運動の可能性との関係によって決まるというのが、彼の基本的な考え方だと思います。Hurley and Noe 2002とNoe 2004の関係がどうなっているのかは、今後チェックしてみようと思います。不勉強なもので前者は未読でした…)

もちろんこれも経験的な仮説なので、実際にそのような投射関係の変化が生じているのかを調べれば、間違っていることが簡単に示されるのかもしれませんが。

第二に、これらのモデルを盲視に適用したときにどうなるか、という点について。

吉田さんが提示した二つのモデルのどちらが正しいかについては、ある程度経験的に判定できるかと思います。たとえば、脳活動重視説では、V1損傷直後から何かある感じが生じるはずであるのにたいして、感覚入力重視説では、網膜から上丘に至る経路が強化されるにつれて、「なにかあるかんじ」が生じることになります。おそらく、実際の盲視患者は後者のパターンを示すことが多いと思われます。さらに、実際に上丘への投射が強化されていることが示されれば、盲視患者は微弱な視覚経験を獲得したのだという説が有力になります。

しかし、盲視患者には二つのタイプがあるということで、話がややこしくなります。どちらにおいても、網膜から上丘に至る経路は保存されているわけですが、タイプ1の患者では、(時間が経過しても)「なにかあるかんじ」が生じません。これが、タイプ1とタイプ2のどのような違いに由来するのか、網膜から上丘に至る経路に実は違いがあるのか、あるいは上丘より後の処理に違いがあるのか、このあたりを明らかにしなければ、「なにかあるかんじ」の正体ははっきりしないかもしれません。

ちなみに吉田さんは、ブログのNote 4で、「なにかあるかんじ」は、視覚経験ではなく、視覚入力によって生じた身体反応の知覚かもしれない、という仮説も提案されています。これもたいへん興味深い仮説ですが、もしこの仮説が正しいとしたら、タイプ2の盲視患者は、視覚刺激の有無の検出はそれなりにうまくできるはずです。実際にはタイプ2でも刺激の検出能力はそれほど高くないのだとしたら(たしかそうですよね?)、この仮説は正しくないのかもしれません。(もちろん、視覚刺激を提示されたときの身体変化はかすかに知覚されるだけなので、刺激の検出能力が100%に遠く及ばないのだ、と考えることもできるので、これだけでは決着はつきませんが、このあたりは経験的に検証していくことが十分可能でしょう。)