シリーズ懇話会 第3回「インチキ科学にだまされないためにー批判的思考力と科学リテラシーとを身につける」講演記録

 2010年6月11日(金)に、シリーズ懇話会の第3回として、京都大学大学院の楠見孝教授による講演、「インチキ科学にだまされないためにー批判的思考力と科学リテラシーとを身につける」がありました。懇話会には学部生や一般の方なども含め、44名の方が参加され、質疑応答も活発に行われました。以下は講演内容の記録です。

 楠見先生からは、はじめに、疑似科学(インチキ科学)の問題に対処するためには、専門家が科学的なデータや理論を説明する能力と、市民がその説明を理解する能力が必要だが、現在の大学教育ではどちらの能力も十分に養成されていないという指摘があった。

 講演では、まず、疑似科学の特徴付けや分類が説明された。楠見先生によれば、疑似科学はその対象によって決まるものではなく、検証の手続で決まるものであり,科学と疑似科学の境界は明確ではない。疑似科学の実例として、脳トレ理論とその問題点が紹介された。疑似脳科学に関しては、脳画像や脳科学的な情報が強い説得力を持つため、脳にかんする疑似科学的な情報は無批判に受け入れられやすいという指摘があった。

 つぎに、疑似科学にだまされないために必要な能力として、批判的思考力と科学リテラシーについての説明があった。批判的思考とは、他人を批判するということではなく、自分の思考を反省的に吟味することである。そして、批判的思考力を身につけるためには、人の思考にゆがみをもたらす原因について理解することが重要である。また、科学リテラシーとは、基本的な科学技術用語や概念の理解、科学的な手法や過程の理解、科学政策にかんする問題の理解からなる能力であり、メディアリテラシーや経済リテラシーなどとならんで、市民生活に必要な能力である市民リテラシーの一部をなすものである。

 この批判的思考力を身につけるためにはどうしたらよいのか。楠見先生からは、3つの重要なステップについての説明があった。第一に重要なのは、問題や議論を明確化することである。たとえば、脳トレ理論が信頼できるかどうかを検討するには、「脳の活性化」が何を意味するかを明確にしなければならない。第二に、推論の土台を検討することが重要である。たとえば、ある理論の根拠となるデータは専門家が提供しているものであるのか、しかるべき手続を経て得られたものであるのか、といったことを確認する作業がこれにあたる。この点にかんしては、専門家による厳しいチェックを経て学術雑誌に掲載された情報であることが一つの目安となる、という説明があった。第三に、根拠から結論が導けるかを確認しなければならない。ここでは、結論が過度に一般化されていないか、データから結論を導く推論に誤りがないかなど点をチェックすることが重要である。楠見先生らが食品を題材に行った研究によれば、批判的思考力を高めることは、科学リテラシーやメディアリテラシーを高め、科学的な情報に接した際に適切な行動をとることを可能にするという。

 批判的思考力は、どのように教えることができるのだろうか。一つのポイントは、具体的場面における問題解決過程の中で批判的思考力を身につけさせるほうが効果的だということである。このことを念頭に置けば、疑似科学や疑似脳科学の情報を見極めたり、就職活動の際に企業が提供する情報を吟味したりすることによっても、批判的思考力を高めることが可能であるかもしれない。批判的思考力や科学リテラシーを高めるには、学校教育、マスメディア、日常的な対話という3つのルートがある。楠見先生によれば、学校教育やマスメディアというルートが利用できない人でも、日常生活の中で立ち止まって物事を考えてみる習慣や、身の回りの人と議論する習慣を身につけることによって、批判的思考力を高めることができるはずである。

 続いての質疑応答では、以下のような議論があった。

 教育にかかるコストを考えたときに、学校教育のカリキュラムのなかで科学リテラシーを教えるべきかという質問にたいしては、楠見先生より、エッセンスを教えるという形であれば、学校で教えることも十分に可能だろう、ただし、できれば義務教育の段階から科学リテラシー教育を行うべきであるという回答があった。

 PISAによるリテラシーの考え方は欧州でどのように受け入れられているのかという質問にたいしては、PISAの考え方は実生活の中で活用できる知識やスキルを重視するという学力観だが、従来から欧州では注目されており、近年では日本でも注目されているという説明があった。

 何が科学で何が疑似科学なのか、たとえば地震予知や宇宙論はどちらに分類されるのか、という質問にたいしては、両者のあいだにはグレーゾーンがあり、はっきりといずれかに分類することが難しいものがあるのは事実だが、科学と疑似科学を区別するうえでもっとも重要なのは主題ではなく検証のプロセスであり、この観点からすれば、ある種の地震予知などは疑似科学に分類されることになるという説明があった。

 戦時中の日本の状況などを考えれば批判的思考力を身につけるのは重要だが、それには時間がかかるのではという質問にたいしては、米国において批判的思考力の重要性が9.11の同時多発テロ直後の市民の反応に対して指摘されていおり、政府などが提供する情報を批判的に検討することの重要性が再認識されるようになったことがあるという説明があった。また、批判的思考力を身につけるのに時間がかかるのはやむを得ないことであるという回答があった。

 一般の人々が科学者の信頼性や専門性を見分けるにはどうしたらよいかという質問にたいしては、たとえば大学のホームページである科学者の研究内容を確認するなどの方法があるが、一般の人々がそのような情報に基づいて判断を下すのは現実には難しいという説明があった。

 以上が第3回懇話会の内容である。このシリーズ懇話会を通じて、脳科学ブームをとりまくさまざまな問題が浮き彫りになった。たとえば、世間に流通している脳にかんする情報については、一般の人々と専門家のあいだで、その評価にかなり大きな隔たりがあることがわかった。脳研究者や脳研究に関連する諸分野の研究者は、一般の人々に向けて正確な情報を発信することにいっそうの努力を傾ける必要があるだろう。また、科学にかんする信頼できる情報とそうでない情報を見分けるためには、批判的思考力や科学リテラシーが重要だが、どのようにしたら一般の人々がこれらの能力を身につけることができるのかは明らかでない。科学リテラシーは、科学の個別領域にかんする知識とは異なり、本を読んだり講義を聴いたりするだけでは身につかないように思われるし、また、この能力を高めるには長い時間がかかるように思われる。一般の人々が必要最低限の科学リテラシーを身につけるためには、どこで何をどのような形で学んだらよいのかという問題は、脳科学にとどまらず、科学一般と社会の関係を考えるうえで、きわめて重要な問題だろう。